「内輪の論理」からの転換へ

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"それぞれの経緯を見ると、
これらは日本の関係者の内輪なら
あいまいに済まされていたかもしれない問題だ。
しかし情報化とグローバル化が進んだ現代では、
事態はすぐ国内外に拡散してしまう。
そのため著作権侵害や女性蔑視発言なども、
昔より大きな波紋をよびやすい。"

今日の朝日新聞文化欄の
歴史社会学者・小熊英二さんの寄稿
<「内輪に閉じた東京2020五輪」/a>から。

日本の国際社会復帰を象徴していたと
1964年について論じつつ、
今回の五輪では、関係者の「内輪の論理」が
失態を招く事例が目についたとその理由について述べています。

"これに対処するには、個々人の意識の向上も大切だ。
だがそれだけでは十分ではない。
すべての人間が完全無欠ということはありえないからだ。
 そのため現代では、
人間は不完全だということを前提に、
権利関係、選考基準、決定プロセス、責任の所在などを
明確にしておくことが重視されている。
これなら問題が起きても原因を特定できるし、
国内外を納得させる説明責任を果たしやすい。"

いわゆる透明性の問題ですね。

"逆に最悪なのは、
上層部や関係者の内輪で不透明な決定プロセスをとることだ。
これだと問題が起きたとき基準や経緯を対外的に説明できない。
また組織上の原因を特定できないので、
問題を起こした個人の心得が悪いという以上に発展しない。
だから個々人に辞任と謝罪をさせるだけで組織運営は変わらず、
同じような問題をくりかえすことになる。
これは「内輪の論理」がたどる必然的な帰結だ。
 これは今の政府も同様だ。いつも官邸の内輪で決定し、
問題がおきると「飲食店が協力しない」「若者に危機感がない」などと
国民の心得を責め、同じような失敗をくりかえしている。
だが本来なら、国民全員が完全無欠の優等生でなくても機能する
制度設計に努めるのが政府の役割のはずだ。
21世紀の国際イベントを前世紀の「内輪の論理」で主催するつもりだったなら、
時代錯誤というほかない。"

引用が長くなりましたが、
今回の五輪、今の日本の状況を分かりやすく表していると思うので、
備忘のためにも書きとめておきます。
何回も同じような結論の文章を引用しているような気がしますが、
時代の転換には
まず認識から転換しないと生き抜けないような気がしています。