『指揮者は何を考えているか』

"指揮者としての五十年のキャリアというのは
いかにも長く思えるかもしれないが、
私の指揮とのかかわりはそれだけではない。
指揮者になる前の十年間にも、
テレビでアルトゥーロ・トスカニーニや
レナード・バーンスタインといった指揮者たちの活躍を目にしていたし、
十代のときにはニューヨークでさまざまなコンサートに通った。"

ジョン・マウチェリ著
『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』
読了しました。

メトロポリタン歌劇場でレナード・バーンスタインの
アシスタントとしての仕事を手始めに、
バーンスタインとの親交を深めたという著者です。
彼が、"指揮者の錬金術"について
自身で体験し見聞きしたエピソードを明かしながら
綴った本がじつに面白かった。

"一九六六年年の夏にはヨーロッパを訪れて、
バイロイトやザルツブルク、グラインドボーンといった
トップクラスの音楽祭に足を運ぶとともに、
ミュンヘン、ロンドン、ウィーン、アムステルダム、パリで
すばらしい演奏に接することができた。
今振り返って考えると、
自分は二十世紀初頭に教育を受けた指揮者たちが
依然として活躍していた時代の、
最後の数年間に居合わせたのだということに気づかされる。"

60年間オタク的に音楽を聴き、
指揮者として実践してきた著者の豊富なエピソードが楽しい本です。


紹介はここまででも十分ですが、
後でいくつかのエピソードを紹介します。
紹介したいページに付箋をしたら、
付箋だらけになっちゃいました。
その上、音楽の話を文字で表すと長くなります。
この後は、興味のある方だけお読みください。

まず、バーンスタインについて、
読んで楽しかったエピソードから。

"レナード・バーンスタインは、よくジャンプすることで有名だった。
その激しい動きから、だいぶ年下ではあるが、
同時代のエルヴィス・プレスリーとよく比較された。
私の兄は、
バーンスタインが『春の祭典』を指揮するのを見て、
「手を使わずにズボンのファスナーをあげようとしている人みたいだ」
と言っていた。
バーンスタイン自身は、
映画やビデオで自分の指揮姿を見るといつも嫌になる、
と言いつつ、
「でも自分のやり方で指揮をすると、ほしいサウンドが出てくるんだ」
とも述べている。"

次に、
カラヤンとバーンスタインについてのゴシップ的な話。

"一九七五年八月三十日土曜日、ヘルベルト・フォン・カラヤンは、
ザルツブルクの自宅にレナード・バーンスタインを招き、昼食をともにした......
...
私がまずカラヤンについて尋ねると、
バーンスタインを(は?原文のママ)その印象を、
「奴は僕より十歳年上で、一センチ背が低い」という簡潔な
----人によっては「致命的」とも取れる----言葉で片付けた。
居合わせた人々にとって、ランチは試練の場となったようだ。"

著者によると、
バーンスタインは嫉妬とかとは無縁だったそうですが、
ライバル心というのはどんな人にも影響があるのですね。

さて、もう一つはある意味で衝撃的な話です。

"一九七九年にバースタインが長らく切望されていた
ベルリン・フィルへのデビューを果たしたとき、
その演目に選ばれたのはマーラーの交響曲第九番だった。
バーンスタインによると、彼はベルリン・フィルに曲を「教えた」という。
どれほど優秀なオーケストラであろうと、初めての曲を演奏するときは、
ある程度導いてもらう必要がある。
(ベルリン・フィルの団員は何十年もの間マーラーの九番を演奏したことがなく、
一九七九年の時点では実質上「初めて」の曲になっていた)。"

"バーンスタインは、
マーラーの九番の各パート譜(中略)を個人的に所有していた。
ところが、演奏会が終わり、
バーンスタインがニューヨークの自宅に戻っても、
その個人所有のパート譜がベルリンから送り返されていなかった。
...
バーンスタインのニューヨーク事務所は、
再三にわたり電話と手紙でパート譜を送り返すよう
ベルリン・フィル側に要請した。
数か月経っても楽譜は戻ってこなかった。
その後まもなく、カラヤンはマーラーの交響曲第九番を
ベルリン・フィルと録音して英グラモフォン賞を受賞した。
やっとパート譜がベルリンから返還されたとき、
バーンスタインは、
カラヤンが自分の書き込みを参考にして
演奏と録音を行ったに違いないと確信した。
そして、このような出来事を公にすべきだと思ったのである。"

スキャンダラスな話ですね。
パート譜にはバーンスタインの"秘密"が書き込まれていたそうです。
カラヤンのマーラーの9番の録音は私もよく憶えています。
録音のダイナミクスが大きくて、
小さい音が聞こえるように音量を合わせると、フォルテが超大音量に、
フォルテを耐えられるようにすると
小さい音が聞こえにくいというアルバムでした。
素晴らしい演奏でしたが。

この後は、いくつか面白かったエピソードを・・・。

"一九七一年、
当時ボストン交響楽団のコンサートマスターを務めていた
ジョゼフ・シルヴァースタインが、
タングルウッドの普段は教室として使われている小屋で、
指揮科のフェローたちを前に話をしたことがあった。
彼は、オーケストラが指揮者に何を求めるかということについて、
非常にはっきりとした考えを持っており、
「青い空に一片の雲、といった類いの話は指揮者にしてほしくない。
長い短い、速い遅い、高い低いという指示だけで十分だ」と語った。"

気持ちはよく分かりますよね(笑)。

"率直に言って、
指揮を経験した作曲家は最も具体的に楽譜を書く傾向がある。
頭の中で鳴っている音楽を楽譜という
実践的な形態に落とし込む方法を知っているからである。
というわけで、
メンデルスゾーン、ワーグナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスの音楽は、
ヴェルディ、ドビュッシー、プッチーニの音楽よりもどいちらかというと指揮しやすい。"

なるほど。

"音楽は紙に書かれており、紙は重い。
皮肉なことに、音楽が軽いほどスコアは重くなる。
というのもポップス・コンサートでは通常小品を多数演奏することになり、
ときにはその数が十五から二十にもなるからだ。
スコアはかさばり、とてつもなく重い。
飛行機に乗る際は手荷物にしなければならない。
というのも自分はビルバオに行くのに、
スコアがブエノスアイレスに着いてしまった
などということがあってはならないからだ。"

「皮肉なことに、音楽が軽いほどスコアは重くなる」というのが面白いですね。

音楽的な話では、
楽譜の校訂作業でかつての楽譜が変更され
たクリティカル・エディションの扱いが興味深かった。
マーラーの交響曲第4番の冒頭のリズムについてだけでも
長い論争と演奏の歴史があったというのは知りませんでした。

また、マウチェリは来日して、
東京フィルと映画「アリス・イン・ワンダーランド」に合わせて
生演奏するコンサートも指揮したそうです。

日本ではあまり知名度がないジョン・マウチェリですが、
音楽オタク的で経験の豊富な指揮者が、
指揮という魔術の裏側を可能な限り明かしている本書は、
音楽好きにはぜひ読んでいただきたいと思います。

最後に、彼の文章の中から、
今の新型コロナウイルス禍の渦中にいるわれわれに響く言葉を引用します。

"誰も、どんな技術の進歩も、
ライブのコンサートやスポーツ・イベントを排除することはないだろう。
人間は社交的な動物であり、集うのが案外好きというか、
そうせずにいられないのだ。
何かを一緒に体験する機会を与えられると、人は喜んで集まってくる。"