「追憶にあらず

"グレーのオーバーを着た小柄な楚々とした
礼儀正しそうな感じの女性が、部屋に入ってきました。
なぜ執行部に入りたいのか、どんな職場で働いているのか、
など話し始めてすぐ、私たちは意気投合しました。
彼女は<キリンビール>に勤めていて..."
三浦俊一さんの『追想にあらず 1969年からのメッセージ』から。

「彼女」は遠山美枝子。「私」は重信房子。時は1965年のこと。
重信は<キッコーマン醤油>で働いて夜間に大学に通っていました。

"以来、最も近しい仲間としていつも助け合うようになりました。
...私が日本を発つ頃まで共に暮らし、
アラブに行った後も彼女が山に入る直前まで交流していました。"

1971年1月に重信はパレスチナ解放闘争に身を投じ、
遠山は1972年1月に連合赤軍のリンチで命を落としています。

"ロシア革命以降、世界は資本主義から社会主義・共産主義に向かう
真の人類史の「過渡的世界」に入ったという認識、
それ以降プロレタリアートは被支配階級であるけれども、
ロシア革命を媒介としてブルジョアジーは受動的・防御的となり、
プロレタリアートは本質的にブルジョアジーを逆制約しうる位相に転位した。

柔らかな文体で重信の青春を描いた自伝的文章の中で、
闘争理論だけが妙に硬い。

"私の夢はまだ実現しきれていません。
...私や、私たちの闘いで迷惑や被害を与えてしまった方々に謝罪します。"

この本は1969年を中心に、
赤軍派に参加した人々のと寄稿で成り立っています。
「まず重信房子氏の自伝から読んでもらいたい」という序文を寄稿した
酒井隆史大阪府立大学教授のススメに従って読んだ
重信房子の文章だけでもいろいろな発見があります。

"「革命」を豪語しながら革命からどんどん離れていった......。"(著者・三浦俊一氏のあとがきより)

なぜこうなったのか? 

"先進国で左翼テロリズムが席巻した一九七〇年代であっても、
日本ほど諸新左翼セクトがここまで内ゲバをくり広げているような
場所はないようにみえる
...調和を重視することが排除の暴力につながる傾向は、
日本社会にはとくに強く内在する特性といえるかもしれない。"

1965年生まれの酒井教授は、
この特性を乗り越えるヒントとして「笑い」を上げていますが、
今を生きる私たちにも投げかけられている問いなのでしょうね。

"このような真摯に生きようとしたひとりの人間が、
時代状況の風圧の中で、
ときに決して賢明とはいえない選択をしたこと。
それはいまを生きるわたしたちと、
けっして無縁ではない。"(酒井教授の序文より)

私もこの自費出版本をまだ読み始めたばかりですが、
過ぎた時間を反映してか比較的淡々と冷静に振り返る文章が多いようです。

私は直接経験していませんが、
良くも悪くも熱かった"あの時代"を振り返るのに
格好の読み物になっていると思います。