演奏家はすでにそこにいる

「吉田秀和全集〈4〉現代の演奏」を読了。

けっこう読むのに時間がかかったが、
ゆったりと噛みしめるように
演奏のあり方について
思考を進めていく刺激的な本。

特にこの本に収録されている
昭和42年に刊行された単行本「現代の演奏」の中の
最終章「演奏家はすでにそこにいる」が
この音楽評論家の考えを端的に表している。

印象的な文章を
いくつか備忘として書き写しておこう。

   ・・・終局的には、
   「演奏家とは何か?」という問いに導く。
   私は、今まで書いてきた、
   また書き切れなかった現代の演奏をめぐる
   さまざまの状況と内部の論理とを通じて、
   「演奏家とは、昨日と今日をつなぐ役目をもった芸術家だ」
   と結論したい。
   ・・・
   演奏家たちは、楽譜があるから、
   それをよんで音に直すのではなくて、
   音楽、つまり音を出し、それによって何かの
   特定の芸術的伝達を行いたいから、
   楽譜を手にとるのである。
   楽譜は、彼らの自由を束縛するように見えて、
   実は、彼らのその音楽をするという欲求を解放し、
   しかも、非常に高い知的精神的感覚的行為にまで
   高める媒体なのである。
   (330ページ)

   私たち、聴衆にとってこそ
   あるいはベートーヴェンやシューベルトは
   すぎ去った音楽であるのかもしれないのであるが、
   演奏家は、それをあくまで、
   今この瞬間の音楽として、私たちに提出してくる。
   それは古くて、しかも新しい音楽である。

   音楽は、こういう演奏家という生産労働に
   従事する中間物のあるおかげで、
   すぎ去ったもの、すぎ去るもののすべてが、
   すぎ去りっぱなしになるわけではなく、
   過去と現在は分かちようのないほど
   結ばれているのだという意味で、
   私たち束の間の生命しかないものに、
   《永遠》を体験さす芸術となっているのである。
   (332ページ)